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展覧会レビュー 岩垂なつき〈絶対的存在の揺らぎ ──杉本克哉「YOU ARE GOD-Drop in the box-」展評〉
岩垂なつき〈絶対的存在の揺らぎ ──杉本克哉「YOU ARE GOD-Drop in the box-」展評〉pdf
絶対的存在の揺らぎ
岩垂なつき(美術評論家)
杉本克哉によるLOKO GALLERYでの個展「YOU ARE GOD -Drop in the box-」の会場に並ぶのは、星形や六⾓形、三⾓形などのキャンバスに、ランダムに配置されたポップなオブジェを描いた絵画作品である。ブルーの背景にモチーフの鮮やかな⾊彩が⽬を惹き、タイトルの響きに仰々しさよりも軽やかな印象を与えている。描かれたオブジェは杉本が幼少期から集めたもので、キャンバスの形は杉本が幼い頃遊んだ「型はめボックス」の形から取られている。鑑賞者は杉本のおもちゃ箱を回遊するかのように、本展を鑑賞することができる。
タイトル「YOU ARE GOD」はセンセーショナルで強烈だが、これはまず、杉本が本作で引⽤している箱庭療法の⽅法論に由来する。箱庭療法とは砂を敷いた箱の中でクライアントが⾃由にミニチュアのオブジェを動かすことによって⾏われる⼼理療法の⼀つである。杉本は本作の制作にあたり、職業を異にする9⼈の参加者に箱を当てがい、それぞれ好きなおもちゃを選んでもらい、箱の中で⾃由に配置してもらう。他と隔絶された箱の中は⼀つの世界として成⽴しており、それを⾃由に操作することのできる参加者はその⼩さな枠の中でいわば「神」となる、というわけだ。そして杉本は参加者によって制作された9つの「世界」を撮影し、現物も観察しながら、精緻な筆致で絵画作品へと落とし込んでいく。しかし完成された作品をしばらく眺めていると、⼀つの疑問が湧いてくる。これらの絵画作品の「作者」というべきは、果たして誰なのだろうか。箱庭の中に彼らの感性によっておもちゃを配置してみせた参加者か、それを⾃ら筆をとって描いた杉本というべきか?
ここで「創造」という概念について、⻄欧世界の歴史を簡単にたどりたい。初期キリスト教世界において、「創造(create)」とは、全くの無から何かを⽣み出すことであり、神のみが可能とされていた※1。⼈間に可能なのはあくまで「制作」であり、絵画や彫刻などは、それ以前の古代ギリシャの思想を引き継ぎ、現実の何かを模倣したものと解釈されていたのである。ここに「作者(author)」の概念は存在しない。しかし、初期近代以降、市⺠階級の台頭などを背景に、作り⼿の⽴ち位置は変化していく。早い段階では、レオン・バッティスタ・アルベルティが⾃⾝の著書の中で画家が作品を創造することを神が世界を創造することに重ね、画家を「もう⼀つの神」と称えている※2。そして近代には芸術の源を現実にある何かではなく芸術家の中にあるとした考えが普及し、アバンギャルドの時代ともなれば「独創性(オリジナリティ)」に対する、ある種脅迫的なまでの追求が始まるのである。
だが本作において⾯⽩いのは、杉本が創造主(GOD)としての⽴ち位置を「YOU」にやすやすと渡してしまっていることである。画家の⾃分ではなく「あなた」こそが神であると。それは箱庭を制作した参加者たちであり、作品を⾃由に解釈できる鑑賞者とも⾔えるかもしれない。近代以降、芸術家が芸術家たる所以となってきた「オリジナルであること」から距離を置くことで、杉本は「創造」についての終わらない問いかけを続けているかのようだ。あらゆる実践がやり尽くされ、あらゆる情報に容易にアクセスできるように思える現代においては、何かの影響を受けないことなどほぼ不可能であり、神のごとき創造など幻想に思えてしまう。それでも杉本は彼の視点で、「つくる」という⾏為に向き合っている。対象を緻密に描きこむ杉本の表現⼿段は、芸術作品が何らかの「模倣」とされていた時代の、職⼈的な画家のありように⽴ち返っているようでもあり、また幼い⽇に遊んだおもちゃなどをモチーフとしている点には、⾃⾝のより原初的な創造性を呼び起こそうという意図も感じられる。杉本は他⼈が制作した箱庭を精緻なリアリズムをもって描くことによっ て、美術の歴史、そして作家個⼈という⼆つの視点から「創造」についての探究を⾏っている。
また、本作で杉本が⾔及しているのは「創造主」としての「神」だけではない。この世界を司る、⼤いなる⼒としての「神」だ。「創造主」という⽴ち位置はキリスト教的な感覚によるが、この「神」はより普遍的で抽象的な、現実世界に⽣きる私たちを動かす何か、とい った意味合いである。本展の中⼼をなす絵画において、9名の箱庭の作者は、それぞれアイドル、元教師、牧師、テレビディレクター、研究者、医師、証券会社員、ホームレス、保育⼠と、社会の中の役割が⾮常に明確である。2021 年の同タイトルの展⽰では箱庭の参加者が⼦どもという「何者でもない」存在であったのに対し、今回は肩書きを強調している点に杉本の意図を感じる。さらにギャラリーの奥には、参加者が記⼊したシートがある。そこには各々の職業、年齢、箱庭の制作のねらいなどが書かれており、鑑賞者はそれらを頼りにして、それぞれの箱庭とそれを制作した⼈物の職業を照らし合わせるという楽しみ⽅が可能だ。会場にいた杉本が、それぞれ「答え」を後から教えてくれたのだが、なるほど、アイド ルの制作した箱庭はあからさまにピンクや⾚のリボン、フリルに彩られており、研究者の制作したものは箱の中に区分けがなされ、オブジェを何らかの規則で分類しているかのようだ。このように⾒ていくと、思いのほか箱庭の構成とその職業は関連性を感じさせる。
しかし本作の制作過程を考えてみれば、それは当たり前なのかもしれない。⼼理学における箱庭療法とはあくまで医師と個⼈の間で⾏われるもので、その成果物を第三者にみせることは前提としていないが、今回のように「絵画」として公にさらされることを意識した時、社会の中の⾃⾝の役割をある程度意識するようになるだろう。「アイドル」である⾃分、「研究者」である⾃分、「医師」である⾃分、特定の職業の「⾃分」であれば果たしてどんな箱庭を作るのか?砂が敷かれた箱の中で⾃由な創造を楽しんでいるようで、そこには常に他者の視線が介在している。するとこれらの箱庭は、9⼈の参加者それぞれが本当に⾃らの意思で作ったものと⾔えるのだろうか。⼀連の作品は、社会システムの中で個⼈の振る舞いが無意識のうちに規定されうることを⽰唆している。
なお、ギャラリー内には箱庭を体験できる場所が設けられており、9⼈の参加者たちと同様の体験をすることができる。だが、そこで砂に触れたり、オブジェを選んだりといった遊びを始めると、ふと違和感に気づく。頭上にはカメラが設置されているのである。そして砂の下はよくみればスクリーンとなっており、箱庭でおもちゃを配置する鑑賞者の姿が映し出されている。ギャラリー内に作られたこの構造は私たちが⾒えない視線から逃れられないことを⽰しているかのようだ。情報社会、そして監視社会の中で網の⽬のように広がり、私たちを⾒つめる視線。それは現代において「神の⽬」に匹敵するだろうか。
杉本による本展「YOU ARE GOD」は「作り⼿」の存在とそれを⾒つめる視線を何重にも介在させることで、芸術のありようと社会システムについて同時に問いかける。芸術の創造主とは、果たしてモチーフを作ったものか、それを描いたものか、もしくは作品をそれぞれの解釈で眺める鑑賞者か。そして、社会の中で⽣きる私たちを動かしているのは、政治なのか、経済なのか、メディアなのか。このような状況においては私たちもまた「神」としての役割を知らず知らずのうちに担うこともありうる。本展「YOU ARE GOD -Drop in the box-」 は現代における絶対的な存在の曖昧さと危うさについて、広範な視点から問いを投げかけている。
※1小田部はトマス・アクィナスの『神学大全』を取り上げ、中世における「無からの創造」説と比較しなが ら、近代的な芸術創造という観念について論じている。小田部胤久『⻄洋美学史』東京大学出版会、2009 年、53 頁。
※2アルベルティは絵画が「死んだ⼈を、ほとんど⽣きているかのようにする神のような⼒」を持ち、万物の美について理解させることに役⽴つとし、それらを誰かが礼拝するとき、作者は「もう⼀つの神」と⾒做される、としている。レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』三輪福松訳、中央公論美術出 版、1992年、31~32⾴(原著1435年)。
【参考⽂献】
井奥陽⼦『近代美学⼊⾨』、筑摩書房、2023年
⼩⽥部胤久『⻄洋美学史』、東京⼤学出版会、2009年
レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』、三輪福松訳、中央公論美術出版、1992年 (原著1435年)
■プロフィール
岩垂なつき(いわだれ・なつき) 1990年⻑野県松本市⽣まれ。 2015 年東京藝術⼤学⼤学院美術研究科芸術学専攻修了(美学)。ヴァンジ彫刻庭園美術館の 学芸員、都内⽂化施設の広報・コーディネーターを経て、現在は都内で学芸員として勤務す る傍ら、美術評論執筆等を⾏う。
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