展覧会レビュー てらまっと〈世界に謎を取り戻すために──杉本克哉「YOU ARE GOD」展評〉


世界に謎を取り戻すために──杉本克哉「YOU ARE GOD」展評

 

てらまっと(https://twitter.com/teramat)

 

『ミッケ!』という絵本を知っているだろうか。いろいろなおもちゃや模型、ぬいぐるみ、雑貨や自然物などが見開きいっぱいにちりばめられ、そのなかから文章で指示されたものを探し出す「謎解き絵本」だ。『ウォーリーをさがせ!』と同じタイプだが、こちらはイラストではなく、実際におもちゃなどを並べて撮影した写真のなかから見つけるというもの。宝箱をひっくり返したようなページは眺めているだけで楽しく、小さい頃夢中になって読んだという人も少なくないはずだ。

美術家・杉本克哉の新しい絵画シリーズは、一見するとこの絵本によく似ている。水色に塗られた浅い木箱のなかに砂を敷き、その上に彼が集めてきたさまざまな人形やミニチュア、動物のフィギュアなどを所狭しと並べ、真上から写実的に描いたシリーズだ。絵本とは異なり写真ではないが、画家の手で緻密に描き込まれたおもちゃの数々は、それらを見る者にどこか懐かしい目の喜びを与えてくれる。

その一方で、これらの作品からは、いささかとりとめのない印象も受けるかもしれない。これまでの杉本の作品は、今回と同様におもちゃをモチーフとしつつも、もっと整然とした構図を持ち、明確な意図が込められていた。それに比べると、新作シリーズはいかにも雑然としており、画家が何を表現したいのかよくわからない。なんとなく物語性や法則性があるようには見えるものの、そこからはっきりとした「意味」をくみとるのは難しい。

だが、それもそのはず、これらの作品の「オリジナル」とも言うべき光景は、杉本自身が創り出したものではないからだ。ステートメントに書かれているとおり、それらは幼稚園から小学校高学年までの子供たちが、彼の用意した箱庭のなかに自由に創り上げた「世界」なのである。画家はただそれを丹念に描き写したにすぎない。その結果、画面はこれまでよりはるかに乱雑になり、混沌とした様相を呈することになった。ではなぜ画家は、モチーフの配置というきわめて重要なプロセスを子供たちに委ねたのだろうか。

それは言うまでもなく、自分の作品に「他者性」を導入するためだ。写真や映画とは異なり、絵画というメディウムは、キャンバス上のすべての要素を画家自身がコントロールすることができる。時代劇の背景にうっかり電柱が映り込んでしまうようなことは、絵画では起こりえない。中世風の絵画に電柱らしきものが描かれていたとしたら、それは画家が意図して配置したものであって、偶然の産物ではない。しかし、これは逆に言えば、いつまで経っても自分自身の限界を乗り越えられないということでもある。だからこそ、画家自身が容易にはコントロールできない要素、つまりは「他者」に由来する成分が重要になってくる。

杉本ほどの熟練した画家ともなれば、自分が描きたいと思うものを、ほとんど思いどおりに描くことができるにちがいない。それはあたかも、無から万物を創造した「神」のごとき振る舞いにも見える。だが、それは私たちのような絵画初心者が想像するほど、自由な境地ではないのかもしれない。なんでも描くことができるということは、何かを描くときにつねに「理由」──「コンセプト」と言い換えてもいい──が必要になるということでもあるからだ。

なんでも描けるにもかかわらず、あるいは描けるからこそ、ほかならぬ“これ”を描くためには、そこになんらかの理由がなければならない。それは人間存在の根本的な矛盾かもしれないし、西洋中心の美術史への異議申し立てかもしれないし、過去の植民地支配に対する反省かもしれないし、画家個人の抑圧されたトラウマかもしれない。いずれにせよ、ほかならぬ“これ”を描くことの必然性を見つけ出さないかぎり、彼はもはや自由に描くことができない。その結果、画家によるコントロールはますます強まり、画面には意味が充満していく。

絵画を含む芸術が国家や宗教、資本に従属していた時代は、何かを描くための理由など考えなくてもよかった。ある種の職人的技術者として、宗教画や肖像画といった依頼内容に即したものを納品するだけでよかったからだ。今日まで続く芸術家の苦悩が始まったのは、18世紀頃に「芸術の自律性」をうたう近代美学が成立してからである。これ以後、芸術家は自らの内にある思考や感情を、作品を通じて「表現」する存在となった。彼らは権威から解放され、好きなものを自由に描けるようになった代わりに、自分自身のなかに描くべき理由を見いださなければならなくなった。

作品に「他者性」を導入しようとする試みは、こうした逆説的な不自由さから逃れるための戦略として理解することができる。実際、杉本が前回の個展で発表した「パレット」シリーズは、まさに自意識の袋小路とも言うべき内容だった。制作に使用したパレットを描き写すという興味深いコンセプトだが、ひたすら複製し続ける修行僧のような姿には、何を描けばいいのかわからなくなりつつある画家の苦悩がにじんでいるようにも見えた。新作における子供たちとの協働は、おそらくこの袋小路を突破するために編み出された方法なのだ。

もちろん、他者との協働そのものは、現代美術では決して珍しいことではない。それどころか、鑑賞者を巻き込む「リレーショナル・アート」や地域住民と協力する「地域アート」に代表されるように、むしろスタンダードな方法論として確立されている。そこではしばしば相互理解や多文化共生、地域活性化といった「政治的に正しい」お題目が唱えられ、芸術家によるボランティアの動員に道徳的なお墨付きが与えられる。杉本の今回のシリーズも、ある意味ではこうした流れに棹さすものとして捉えられるかもしれない。

だが、画家にとって重要なのは、子供たちとの相互理解ではないし、ましてや多文化共生でも地域活性化でもない。そうではなく、すべてを芸術家個人の内面へと回収する近代美学の神話を相対化することなのだ。そのことは「YOU ARE GOD」という今回の個展タイトルによく表れている。これは言うまでもなく、箱庭の創造主である子供たちに向けられた言葉だが、裏を返せば、もはや画家自身は神ではない──「I AM NOT GOD」──ということでもある。彼は全能の「表現者」であることを断念し、かつて芸術家が依頼を受けて聖書の場面や権力者の肖像を描いたように、子供たちが創り上げた世界をもくもくと描き写す。

しかし、そうは言っても、結局は画家に代わって子供たちが新たな神となり、キャンバス上に君臨するにすぎないのではないか。この疑問は理屈の上では正しいが、子供という存在は近代美学における「芸術家」とは大きく異なる。彼らは神といっても、いわば「隠れたる神」のようなものだ。子供たちがひとつひとつのおもちゃやその配置に付与する「意味」は、画家のそれよりもずっとゆるく、あいまいで、とらえどころがない。そもそも彼らにとって箱庭とは、自らの内なる思考や感情を「表現」するためのメディウムではないからだ。「なぜこういうふうにしたの?」と尋ねても、納得できる答えは返ってこないだろう。そこには「意味」というよりも、むしろ「謎」がある。

おそらくこれこそが、今回の新作シリーズの最大の見どころなのだ。画家が神としてすべてを支配し意味づける世界から、隠れたる神による謎に満ちた世界へ。各作品のタイトルには、それぞれの世界で画家が目の当たりにした謎が克明に記されている。「バスタブの中で祈る」「ハイヒールを履いたスーパーマン」「仏壇をバケツに」「風船を山に刺す」……シュルレアリスムの有名な一節「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い」と同様、これらにどんな「意味」があるのかを問うても仕方がない。画家の創り出す世界に欠けていたのは、まさにこうした「謎」そのものだった。

世界に謎を取り戻すこと。子供たちとの協働は、この野心的な試みの最初の一歩である。杉本の新作を見ていると、彼が初めて子供たちの箱庭を目にしたときの驚きが伝わってくるようだ。それは私たちが久しく忘れていた喜びでもある。「謎解き絵本」のページをめくり、隅から隅まで食い入るように眺め、ようやく目当てのおもちゃを見つけたときの喜び──彼もまた幼い日の私たちと同じように、心のなかで「ミッケ!」と叫んだに違いない。

世界に謎を取り戻すために──杉本克哉「YOU ARE GOD」展評